Rickshinmi

2020年代を代表するサウンドは、まだない。

原題: There Is No Sound Of The 2020s. Yet.
媒体: Resident Advisor
著者: Gabriel Szatan
日本語訳: Rick Shinmi
原文: https://ra.co/features/4505


訳者前書き

今年の六月にRAから出された記事です。みんなで議論したいので、ぜひ感想を教えてください。


この10年は、音楽の面でどう記憶されるのだろう。今のところ、答えは見えない。二部構成の特集の前編として、Gabriel Szatanが、現在のエレクトロニック・カルチャーを分断している要因と、この先どこへ向かえるのかを考える。

前書き

今年の初め、私は著名なDJたちが大勢出演する、非常に有名なクラブを一晩中さまよっていた。そして、何も感じなかった。

ラインナップだけを見れば申し分ない。異なる世代のベテランと新鋭が並び、その分野では紛れもないスターも何人かいた。ところが、何か感覚を鈍らせるような作用が働き、どのセットも均質な塊へと溶け合っていた。テンポもトーンも、ほとんど区別がつかない。

ある時、ヘッドライナーが顔をこわばらせているのが見えた。観客とうまくつながれず、苦戦していたのだ。メインフロアは予定より何時間も早く閉まり、冷たく明るい照明の下でそれを見届けたのは、最後まで残っていた十数人だけだった。私は思わずこう考えた。

「まずい。パーティはもう終わりなのかもしれない」

それが一度きりの例外なら、気にせず片づけられただろう。だがこの一年、私は同じような物足りなさを何度も味わったし、同じ違和感が話題に上るのも何度も耳にした。あなたにも覚えがあるかもしれない。

どんな音楽が鳴っていても、結局の印象は同じだった。

悪くはない。でも、素晴らしくもない。

クラブ文化を動かしてきた、二度と再現できないような熱狂は、いま冬眠しているように見える。その影響は、夜遊びだけにとどまらない。

最近のエレクトロニック・ミュージックのリリースも、どれも同じ水準で平坦に続いているように感じられる。楽しめる音楽は、かつてないほど多い。それでも私を次第に悩ませるようになったのは、まさにこのあまりにも見慣れた感じこそが問題なのではないか、ということだ。

オンラインでもオフラインでも、生活を取り巻くあらゆるものが、私たちを「すでに知っているものを、もっと」へと押しやっている。

再生を途切れさせないよう最適化されたストリーミング・プラットフォーム。私たち自身の偏りを学習するアルゴリズム。高額化し、知らないイベントを試しにくくなった夜遊び。ラインナップが市場論理に左右されるフェスティバル。

その結果、新しいサウンドが根づく余地は、ますます狭くなっている。

作品が使い捨てにされる傾向は、エンターテインメント全体を襲っている。だが音楽とは、本来、聴き手にもっと深い愛着を生むものではなかったのか。

認めるのは格好悪いが、未開封のプロモ音源が壁のように積み上がり、通知は読み飛ばされ、アルバムは一度聴かれただけで忘れ去られる。音楽はいまや、「とりあえず積んでおく病」にかかりやすくなっている。

現在のエレクトロニック・カルチャーは、奇妙な二重状態にある。

理論上は極端に細分化されているのに、実際には皆が同じ合意や流行へ収束している。

かつて地続きに感じられたシーンは、互いの存在をほとんど知らない、ばらばらの島々へと変わった。そして大まかに言えば、その多くは既存のサウンドへわずかな修正を加えたものにすぎない。

すでにシーンの内側にいる人には、それでも問題ないのかもしれない。だがアンダーグラウンドの動きを追うことは重労働になり、文化が切実に必要としている新鮮な視点をもたらす若いリスナーを、かえって締め出してしまう。

唯一の共通項は、誰もが同じ経済的・技術的な逆風に打ちのめされていることだ。それは創造性を縛るだけでなく、好奇心を保つためのエネルギーまで奪っていく。

先鋭的な芸術も、それを受け止めるための時間をかけた聴き方も、安定した環境があってこそ育つ。

安い家賃。機能する社会保障。個人の自由。自立して存続できるナイトライフ。

そうした条件が同時に失われるほど、生活と活動基盤の不安定さは深刻になる。

進歩が停滞していることも、若いリスナーを十分に取り込めていないことも、それだけで深刻だ。だが2020年代は今のところ、広い大衆へ届く新しいサウンドを生み出せていない。

それは、シーンの存続に関わるもう一つの問題になりつつある。

私は真剣に問いたい。

次の『Remain in Light』は、どこから現れるのか。

次の『Homogenic』は。『Untrue』は。『Black Secret Technology』は。『Oil of Every Pearl’s Un-Insides』は。『Double Cup』は。

繊細さを失わずにメインストリームの聴衆へ届き、そのための後押しも受けられる作品。そんな次の基準作は、どこにあるのだろう。

私たちは本当に、2020年代を代表するエレクトロニック・ミュージックの名盤が一枚も生まれないまま、2030年を迎えるのだろうか。

私たちがクラブや音楽を愛せなくなったわけではない。Resident Advisorが過去二年掲載してきた複数の記事は、必ずしも新しいサウンドへ飛び込まなくても、音との関係を深める方法を人々が探していることを示している。

ふつう、あるムーブメントが衰え始めると、次に何が来るのかを、現場に伝わる微かな兆しから感じ取れるものだ。

いま私を不安にさせているのは、その兆し自体が見当たらないことである。

問題は、過去に頼りすぎた結果、未来を売り渡してしまったことだけではない。あるいは、加速主義の論者として知られるMark FisherやFranco Berardiが論じてきたように、後期資本主義が進歩の首を絞めていることだけでもない。もっとも、どちらにも一理はある。

悲観論者は、私たちは単に新しいアイデアを使い果たしたのだと言うだろう。だが私はそうは思わない。ネット上の膨大なデータは、どこかに新しいものが存在していることを示している。

難しいのは、それを見つける力が私たちにあるのか、それをシーンへ取り込む回路があるのか、そして、そもそも気にかけるだけの精神的余裕が残されているのかということだ。

ここから、互いに結びついた四つの論点を考えていく。

クラブ文化のなかでまとまり、十分な広がりを得るムーブメントの重要性。

音楽産業と、新しい世代の嗜好とのあいだで広がり続ける隔たり。

経済的な壁が迫るなかでも、リスクを取ることが停滞から抜け出す道になりうるのか。

そして姉妹編「No Music on a Dead Internet」で扱う、崩れつつあるデジタル・アーカイブと、生成技術を拒む姿勢という二つの脅威。

順番に読んでもいいし、それぞれ独立した章として好きな順に読んでもいい。

これはダンスフロアの中心からの報告というより、スクリーンの向こう側からの報告だと思ってほしい。良くも悪くも、いまや文化の多くが行き交う場所からの報告である。

ここで示す結論や提案には、的外れなものも含まれるだろう。この記事が、これから始まる夏の流れを変えるなどと思い上がっているわけでもない。

私もあなたと同じように、この夏、パーティを楽しみ、すでにマスタリングを待つ新曲を楽しむだろう。

だが今こそ、一季節ではなく、五年単位で考え始める時だ。

2020年代が音楽の面で何によって記憶されるのか、私たちは自分自身に問いかける必要がある。

新しい領域を切り開くことに価値を感じるなら、新しい流れを動かし始めるための時間は少なくなっている。

もう一つの道は、見慣れた領域を何度も周回し、同じ快楽を少しずつ形を変えて売り直し続けることだ。やがて文化そのものが年老いてしまうまで。

では、進歩の歯車を止めているものは何なのか。

そして、どうすれば動かせるのか。


第1章 隣接性の時代

2020年代には、時代を代表する決定的なサウンドがないのだろうか。人によっては、この10年にはすでにいくつものサウンドがあった、と答えるだろう。そして、それは正しい。

いまも驚くほど素晴らしく、未来を感じさせるクラブ・ミュージックは、探せば必ず見つかる。

たとえば、Spekki WebuとWoody92がMirror ZoneやOmen Waptaを通じて推し進める、Free tek由来のトライバルな潮流。あるいは、これまでにないほどDJたちの選曲に浸透したラテンのリズム。

ロンドンに目を向ければ、実験的な音が渦巻くパーティTrauma Unitや、アフロ・ハウス、UKファンキー、アマピアノを混ぜるHouSupaがある。HypnusPeak OilTraTraTraxIncienso――さらに言えば、ブラジル発の音楽は、ほとんど何もかもが挙げられる。

もちろん、1990年代に起きた創造性のカンブリア爆発が、そのまま再現されることはない。とはいえ21世紀に入ってからは、10年が過ぎるたびに、広くブレイクする音が減っているように感じられる。

エレクトロニック・ミュージックが質の高い作品を生み出さなくなったわけではない。問題はむしろ、にある。

シーンが受け止めきれないほど音楽があふれている。しかもアンダーグラウンドの多くの領域はいまだに過去のレコード箱を漁り続けている。そのため、新しいムーブメントが浮上する可能性が、過剰な供給によってせき止められている。

人々を結集させる中心も、時に反発し乗り越えるべき相手もなければ、シーンの動きはやがて力を失う。

これは独創性だけの問題ではない。時間、金、アクセスの問題でもある。

新しいものを追い続けるには、未知の音楽へ深く潜る余裕が要る。それに加えて、ナイトライフを牽引する主要都市で、時間と自由を確保して暮らせることも大きい。

音楽が受動的な消費へ流れるほど、この悪循環はひどくなる。流し聴きするリスナーを増やし、アーティストへ支払われる報酬をさらに減らすからだ。

一方で、勢いを得たシーンが地理的にも文化的にも遠く、濃い文脈を知らなければ楽しめない場合、リスナーはもっと単純で、慣れ親しんだ快楽へ引き戻される。

ここまでの2020年代に一貫して見られるのは、その傾向だ。

ただし、よりメインストリーム寄りのダンス・ミュージックは、この10年かなり好調だったことも指摘しておきたい。

Chris Stussy、Solid Grooves、FUSE周辺の存在によって、グルーヴィーなハウスの人気は急上昇し、勢いが衰える気配もない。

Interplanetary Criminal、Sammy Virji、ec2a周辺では、スピード・ガラージとベースラインもこの10年の大部分を支配してきた。北イングランドとミッドランズをはるかに越えて広がった、予想外の復活だった。

30歳未満の多くのレイヴァーにとって、2020年代を定義するのはATWやUp The Stussのようなレーベルかもしれない。門外不出のUSB音源が、彼らにとってのダブプレートになっている。

ただし、どれほど巨大であっても、それらはすでに使い込まれたサウンドの延長だ。古い車に新しい塗装を施したようなものである。

大規模な集客の面では、いわゆるTeletech世代も依然として強い。

ハード・ダンス、テクノ、シュランツを結ぶ軸は、明らかに2020年代を象徴する潮流の一つだ。速い音を好む若いリスナーにとって、そこへ向かうのは自然でもある。

だが、そのサウンドが人を選ぶこと、そしてシーンを覆った数々の告発と、その後の批判を考えれば、それがこの10年を代表する様式として記憶されるとは考えにくい。

その可能性があるのは、むしろ台頭するZoomer electronics――Z世代型の電子音楽かもしれない。

EDM、エモ、ラップ、グリッチ、そしてfemtanylの手にかかればブレイクコアまでを融合する、明るく騒々しい音楽。もともと複数のジャンルを包み込む、大きな枠組みとして成立している。

周辺のさまざまなシーンともつながっている。Bladee、Danny Brown、Skrillexも隣接する存在で、この領域へたびたび関わってくる。

SkrillexのCONTRAが先月始動したのも、こうした複数の様式を一つの場へまとめるための戦略的な動きだった。

あまりにネットに密着しているため、その外まで広く届かないようにも見える。ざらつき、崩れたような質感は、年長のリスナーに即座の拒絶反応を起こさせるだろう。

だが、今年の主要フェスティバルのラインナップを見てほしい。Bassvictim、underscores、fakemink、2hollisの名前は大きくなり、2017年頃に人気だった顔ぶれの多くは下段へ押し下げられている。

この動きには注意を払うべきだ。

そしてFred again..がいる。今世紀のダンス・ミュージックが生んだ、屈指のスターである。

比類のない集客力と、経済的な特権が可能にする屈託のなさ。シニカルさを拒む、明るく肯定的な姿勢はGen Zにとって抗いがたく、アメリカではOvermonoやCaribouの人気まで一気に押し上げた。

それでも、10年に一人のスターだけでは、一つの時代にはならない。

視点をアンダーグラウンドへ移すと、事情は少し違う。

2024年に何が話題の中心だったかは、その時点では明白だった。

「Flight FM」、『Brat』、失速しつつあったraveslop――粗製濫造のレイヴ音楽を指す蔑称――、そしてイビサの“Final Boss”を名乗る人物のミームコイン並みの速さで崩れたポップ・エディット。

では、2025年の空気を一言で言い表そうとすると、途端に難しくなる。

大きな熱狂も、明確な「夏の一曲」もなかった年に、どれか一枚を第1位に選ぶのは不自然に思えた。そのため私たちは、2025年の年間ベスト作品を、複数の電子音楽の潮流を見渡す地図のような企画にした。

現在Houghtonのような場所でDJたちの手へ戻っている、再び勢いを得た五つのサウンド――テック・ハウス、ダブ・テクノ、ダブステップ、ミニマル、プログレッシブ――には、明確な美学的アイデンティティが欠けている。

そして、リスクも欠けていると言えるかもしれない。

ここまでの2020年代のクラブ・ミュージックとエレクトロニック・ミュージックは、作品よりも社会情勢によって強く色づけられてきた。

巨大で社会を分断する出来事に揺さぶられ、何度も中断と再開を繰り返した六年間なのだから、無理もない。

パンデミック、人種差別への抗議運動、そして民族国家によるジェノサイドに対して、歌詞を中心としない音楽が作品として示せる反応には、初めから限界があった。

シーンは主に、直接行動や連帯基金を通じて、影響を受けた人々を支えるための再編にエネルギーを費やしてきた。Terre Thaemlitzによる、シオニズムをめぐる痛烈な論考のような稀有な批評的試みがあっても、届く範囲には限界がある。

しかしコロナウイルスによるロックダウンが全員に共通の経験を強いたのだとすれば、その後のDJブースでは、一つの明確な潮流が突出した。

「またか」と白い目を向ける人もいるだろう。だが私はいま、あの生き生きとしたエネルギーの解放と、乱暴なほどテンポを上下させるプレイを、パンクのスリーコードが持つ即時性や、エレクトロクラッシュの鮮烈な美学に通じるものとして見ている。

音楽とファッションは激しく燃え上がり、過去から遠慮なく盗み、ジャンルの純粋性を重んじる人々を苛立たせ、とにかく無視できない存在だった。

あれから、もう四年が経った。

一部のダンスフロアは今、いわばポストパンク的な段階にある。

それはMoinが、逆再生したReece bassの上へ騒々しいパーカッションを加えているから、というだけではない。

私たちは、張り詰めた緊張が渦巻く過渡期へ入ったのかもしれない。すべてが本来の位置から切り離され、ダブ処理され、社会に漂う不安を映している。

こうした過渡期は、しばしば実り豊かになる。新しいアイデアが対等に競える場が生まれるからだ。

ただし、それらが互いに交わるならば、という条件つきである。

現在の風景には、規模もスタイルも似通ったシーンが密集している。そのため、誰を優先して支援すべきかを決めるのは難しい。

若手を早い時間帯からピークタイムへ押し上げる道筋が細るにつれ、その影響は、電子音楽の重要な指標であるフェスティバルのラインナップにも表れている。

2026年のラインナップは才能にあふれている。それでも、観客を最も沸かせる作品を20年、あるいは25年前に発表したアーティストが、例年以上に目につく。

問題の一部は、現在起きている多くの現象に、切れ味のいいジャンル名がないことかもしれない。

この五年間、そこら中で鳴ってきた、トランスの気配を含む、跳ねるようなパステルカラーのガラージ・ハウスに、誰もまだ名前をつけていないのは奇妙だ。

「Four Tet-core」とでも呼ぶべきなのだろうか。

同じように、CCLのsubglow、KiaのAnimalia、Special Guest DJの3XL、そしてPolygoniaKondukuのようなアーティストを結ぶ、発光するような潮流も、簡単な言葉では捉えられない。

ヨーロッパのアンダーグラウンドで起きている微かな動きを伝える際、ジャーナリスト兼広報のChanel Kadirは、low-end psychedelia――ローエンド・サイケデリアという言葉を見つけた。

実にうまい表現だ。世界各地のフェスティバルで、より玄人志向のエリアを席巻してきた2020年代半ばの一群へ、広く当てはめることができる。

だが、その音楽の魅力をはっきり言葉にしようとすると、結局どれも少しずつ的を外した、曖昧な形容しか出てこない。脳を混乱させる錯視画像を見ているようだ。

illbientの影を帯びている。
低音が重い。
ワームホールをくぐるようだ。
リズムの重心が滑るように移ろい、つかみにくい。
BPMは速くても、体感はどこかダウンテンポだ。

要するに、簡単にはパッケージ化できない。

多くのミュージシャンは、正当な理由から意図的に分類を避けてきた。だが、ひと聴きして輪郭をつかめないサウンドは、そのシーンの中心部以外にいる人を刺激しにくい。

「今まさにピークを迎えているのに、僕たちが何も知らないシーンが、きっとどこかにある。若い人たちが素晴らしいことをやっていて、僕らは年寄りだから、そのすべてを嫌うんだろう」
― DJ Harvey

サウンド面でも、今日もっとも魅力的な電子音楽の一部は、純粋なクラブ・ミュージックの周辺領域にある。

ある意味では、電子音楽の痕跡はいたるところに残されている。

21世紀の音楽制作における共通語になった一方で、電子音楽は推進力そのものではなく、楽曲を下支えする骨組みになりつつあるのではないか。

明確な歌曲形式と結びついた幻覚的なテクスチャー――ML Buchの『Suntub』。

R&Bを下から支えるログ・ドラム――Tylaの「Water」。

10代の不安をざらつかせる8ビットのディストーション――Jane Removerの『Frailty』。

前衛的な断片が一つの宇宙を成す――Dean Bluntの『World Music』。

2020年代の音楽は、すでにジャンルを横断する作り手たちのものになっている。

ここにジレンマがある。

こうした作品のなかで電子音楽が果たす役割は、人を電子音楽そのものの熱心なファンにするほど魅力的なのだろうか。

いずれも、過去のいくつもの波が持っていた力や、未来と出会う衝撃には及ばない。

かつての波は電子音楽を何百万人もの耳へ届け、その形式を積極的に追うファンを生み出した。

現在、革新的なシーンやグローバル・サウスのクラブ・コミュニティから生まれる音楽には、ダンス・ミュージックが持つ、世界の見え方を変える力を示す可能性がある。

だが多くの場合、その革新はそのシーンにとどまる。

Tame ImpalaやBeyoncéが、近いうちにtamborのドラムやsingeliのテンポを取り入れる可能性は低いだろう。

その結果、シーンの外にいる中堅や大物アーティストは、ディスコ、ハウス、テクノ、レイヴという扱いやすい型へ集まり、何十年も前からあるジャンルの焼き直しを差し出しながら、無難な形で「ダンス・ミュージックに目覚めた自分」を演出する。

こうしてダンス・ミュージックと電子音楽は、いつまでも参照され続ける。

表面的にはどこにでもある。だが実質的な説得力には欠ける。

サウンドへ注意を向けさせるために必要な文脈と切迫感が、剝ぎ取られているからだ。

結局は、同じ場所を回り続けるメリーゴーランドにすぎない。

一周するたび、得られるものは減っていく。


第2章 ムーブメントの価値

エレクトロニック・ミュージックは、いまもムーブメントを生み出すべきだ。

現代メディアにあふれる、見せびらかすための消費とは違い、電子音楽には、特定の場所で機能する実用性と、未来を思い描く思想が初めから刻まれている。多くのサブジャンルは難解すぎて、メインストリームに簡単に取り込まれることはない。それでいて、何十年にもわたって影響を残せるほど強固でもある。

そして何より、この文化には熱心なマニアが支える基盤がある。

似た規模のサウンドが突破口を見つけられず、出口で詰まっているいま、次の大きな転換を待つだけでなく、新しいムーブメントが過去にどう形成され、台頭してきたかを振り返る意味は大きい。

理想を言えば、一つひとつのリリースは、単独で完結する出来事ではなく、ムーブメントの流れをつなぐ一地点として機能すべきだ。そうなれば、新しい世界へ踏み込もうとする人が、そのサウンドを理解し、内側へ入る可能性も高まる。

あるアイデアや美学の周囲に十分な圧力が蓄積され、それを中心にシーン全体が動き始めた時、ブレイクスルーが起こる。

ひとたびサウンドが臨界点を越え、シーンの外へ届き始めれば、新しいファンとの接点が増えていく。そして、その接点の多さがムーブメントを長生きさせる。

ジャンルやシーンは、本質的に承認や正典化を求めるのだろうか。

人から認知されることだけが、充足へ至る道なのだろうか。

もちろん、そうではない。むしろ、認知から必死に逃れようとするシーンも数多くある

それでも、テクノやハードコアが分かりやすすぎる、と不満を言う人はいない。

最初の接点が、Madison Square Gardenで30夜にわたって響いたフューチャー・ガラージのスティール・ドラムとヴォーカル・カットだったとしてもいい。YouTube Shortsで数秒のIDMを耳にしただけでもいい。どちらも立派な入口だ。

互いに何の関係もないレイヴァーたちが、いまも揃ってクラシックなMidwest houseを崇拝するのには、はっきりした理由がある。

その音楽がまだ熱を持ち、会場のいちばん後ろまで届くほど広がっていた時に、彼らは出会ったのだ。

それこそ、作り手と聴き手の双方にとって理想的な相互関係である。

1990年代については、すでに十分すぎるほど掘り返されてきた。では、その次の10年間からは何を学べるだろうか。

2010年代には、少なくとも三つの大規模で独自性のあるムーブメントが生まれた。

EDM、ハイパーポップ、そしてレトロマニア。

どれも無数の派生形を内部へ取り込み、さらに新たな分岐を生むほど大きく、重要な存在だった。

ドリルを挙げてもいいし、アフロ・ハウス、アフロ・テック、アマピアノが重なる領域を挙げてもいい。デコンストラクテッド・クラブも同様だ。周縁から現れる、生々しく分類不能な音楽を、喜々として力ずくで押し通す姿勢は、いまもダンスフロアを強く支配している。

この三つのなかで最も尊敬されていないのはEDMだ。RAの読者にとっては、ほとんど自明だろう。

EDMは、ダンス・ミュージックを可能な限り巨大化した。だが、その影響を否定するのは馬鹿げている。

業界の大物や胡散臭い連中に大金を稼がせただけではない。そのマキシマリズムは、とりわけアメリカとアジアで、本来なら電子音楽に出会わなかったかもしれない何百万人ものファンを目覚めさせた。

そこでは強烈な創造的摩擦が生まれ、コミュニティ全体がEDMへの対抗を掲げて組織された。

そんなことが最後に起きたのは、いつだっただろう。

その多くはけばけばしかった。ひどい作品も山ほどあった。

だが、ムーブメントは本物であるために上品である必要はない。

ハイパーポップと、『&&&&&』に象徴されるハイパーリアルな電子音楽は、既存のさまざまな要素を引用していた。それでも、過去との明確な断絶として受け止められた。

現代の語彙にはほとんどなかったテクスチャーと、トランスヒューマニズム的な欲望を中心に据え、エレクトロニック・ポップの中心そのものを組み替えたからだ。

「Faceshopping」とデジタル・インターフェースを通じて、第一波のアイコンたちは「機械と一体化する」という電子音楽の原則を更新した。

それは、303と707をつなぐことをはるかに超えていた。

さらに重要なのは、何十年かぶりに、クィアや女性/フェムのプロデューサーたちが先導した電子音楽のムーブメントだったことだ。

その影響はあまりに長く続いているため、2020年代はハイパーポップ時代の延長として記憶されることになるかもしれない。

三つのなかで最も捉えにくいのが、レトロマニアである。

それは一つの明確なサウンドというより、ノスタルジアが広がり、拡張されたアーカイブによって音楽史全体が再び流通し始めたことで生じた、意識の変化だった。

2010年代には、膨大な再発盤の波と、音楽史を多極的に理解したいという欲望が出会った。

専門メディアが最盛期を迎えていたことにも支えられ、かつて入手困難だった膨大な音源が、熱狂的なコレクターや民族音楽学者の手から一般のリスナーへ渡った。

「セレクター」を崇拝する文化は頂点に達した。

そこからダンスフロアやリスニング・バーは、Patrick Cowley、Midori Takada、Saâda Bonaire、William Onyeabor、ニューエイジ、bubblegum、ミニマル・ウェイヴなど、それまで主役になったことのない音楽に魅了されていった。

それと並行して、プロデューサーたちは、半ば忘れられた文化的記憶を解体し、組み替えていた。

エディットが安っぽい模倣として非難され、ドラムンベースを含む複数のシーンが、dBridgeの言う「オマージュそのものが新商品になること」に脅かされている現在とは、大きく違う。

当時、過去への執着は、電子音楽から生まれ広く注目された作品のなかでも、とりわけ興味深いものを生んだ。

The CaretakerやOneohtrix Point Neverから、ヴェイパーウェイヴ、シンセウェイヴに至るまで。

EDM、ハイパーポップ、レトロマニアは、ハウスやジャングルほどどこにでも存在したわけではない。

それでも三つすべてが活発なコミュニティを生み、ライブやレイヴの回路へ深く浸透し、今日の私たちが金字塔と考える作品のあり方に影響を与え、いまも反響し続けている。

一言で言えば、それらは時代を決定づけた

2020年代が終わるまで、あと三年。
この10年を定義する、終盤の創造的な爆発はまだ起こりうる。

しかし、誰もが共有する普遍的な経験が分断されたいま、私たちはもう二度と、まとまりのある「10年代のサウンド」を目にしないのかもしれない。

2020年代だけでなく、これから先のどの10年間でも。

共通のサウンドがなければ、文化はこれまで以上に偶然任せのものになる危険がある。

無限スクロールの時代には、ランダムにフィードを次々と流れていく短い動画として、それが現れる。

車に積まれたサウンドシステムから轟くDek bassであれ、再生回数が一千万回に達したSo Inagawaの思いがけない一曲であれ、アルゴリズムの欲望を満たし、正当な理由でバイラルになる珠玉の一曲は、いつでもどこかに存在する。

だが、一曲が成功する裏で、何百万もの作品が届かないまま消えていく。

それに応じて、新興シーンの一部は短尺動画に合う形へ自らを変えている。

アジア各地で生まれている複数のスタイルには、気取ったところがなく、それが新鮮でもある。プロデューサーOmega Sapienの言葉を借りれば、それらは「ショート動画向けの脳腐れ音楽」まで、あと一歩というところにある。

そもそも聴いて本当に楽しいのかどうかは、議論の余地がある。

さらに、よほど熱心な記者でもない限り、文化を十五秒だけ切り取ったクリップは、業界が全体像を把握するには散漫すぎ、真剣さにも欠けて見える。

まして、それを支援し前面へ押し出すのは難しい。

結局、私を不安にさせるのは、このすべての一過性だ。

私たちが活動しているシステムは、分断され、企業化されているだけではない。

さらに悪いことに、創造的な動きが記録されないまま消えていくのを許している。

誰が記録するのだろう。

かつてのようなコンピレーションや記録資料は、作られるのだろうか。

私たちは皆、最も刺激的な曲がどこかに存在するだけでなく、最終的には自分たちのもとへ届いてほしいと願っている。

しかしいま、音楽はアップロードされ、まとめて投げ出され、そのまま忘れられていく。海を漂うデジタルの瓦礫のように。

そう考えると、その願いがかなう可能性は低く感じられる。

皮肉なのは、あなたのフィード、私のフィード、ほかの誰かのフィードがあまりに違うため、どんな例を挙げても相手がきょとんとする可能性があることだ。

そこで、現在の状況を最も簡単に示すため、一つの大ヒット曲を例にしよう。

今年これまでで最大のダンス・ヒットを知っているだろうか。

イタリアのハウス・グループMilkyが2002年に初めて発表した「Just the Way You Are」である。

Mall Grabによるエディットがバイラルになり、正式に再発されたことで、この曲は再び至るところで流れるようになった。

英国Top 20に四カ月とどまり続けている。

それにもかかわらず、私の周囲にいる多くの人――しかもダンス・ミュージック業界で働く人でさえ――が、この現象をまったく知らなかったことには驚かされた。

2025年の夏に、皆を一つに結びつけるヒット曲がなかったのも無理はない。

分断は現実なのだ。

この二年間で、現実そのものと同じように、エンターテインメントの重心までずれたように感じる。

2020年代の聴き手は、緻密に構築された作品よりも、
何かを引き起こす触媒のようなリリースを評価する。
それは、私たちが停滞とは正反対のものを求めていることを示している。

肯定的に考えれば、質の高い電子音楽が広い聴衆へ届く力について、悲観論が語られたのは今回が初めてではない。

20年ほど前の文化を考えてみよう。

ダンス・チャートには、Hall & OatesやEddie Murphyからフックを借りた軽薄な曲があふれ、スーパークラブの威信は失われていた。

Aphex Twinのような大物は脇道のプロジェクトへ向かい、フィルター・ディスコは勢いを失い、ミニマルはKホールへ沈み、犯罪化政策によってアメリカのレイヴ・ネットワークは壊滅していた。

それでも、わずか数十人しか集まらない薄汚れたロンドンの地下室では、今世紀で最も大きな変化をもたらすジャンルの一つが、UKガラージの燃え残りから生まれつつあった。

そこから何千キロも離れたアメリカでは、電子音楽のライブのスケールを永久に変えることになるステージ・ショーの設計が、完成に近づいていた。

その一方で、大量のクラブ・ミュージックが、ハードディスクの交換とウェブへのアップロードを通じて流通していた。

2005年の大晦日の時点では知る由もなかったが、わずか数年後、ダブステップとブログ・ハウスは世界中のダンスフロアで避けて通れない存在になった。

2020年代が終わるまで、まだ三年ある。

この10年の終盤に、決定的な勢いが一気に生まれる可能性は、まだ十分に残されている。

時計をちょうど50年前まで巻き戻せば、実際に同じことが起きていた。

『Trans-Europe Express』
『Low』
『Music for 18 Musicians』
『Oxygène』
『Ambient 1: Music for Airports』
『Suicide』
『King Tubbys Meets Rockers Uptown』
「I Feel Love」
「Flash Light」
「Kiss Me Again」

これらはすべて、1976年から1978年にかけての、熱に浮かされたような19カ月間に登場した。

定着するまで何年もかかったものもある。

だが全体として見れば、アンビエント、インダストリアル、ダブ、ディスコ、シンセ・ファンク、ノー・ウェイヴ、ミニマリズム、そしてアルペジオが生む陶酔感を含め、後の電子音楽の基礎を築いた。

どれほど優れた予言者でも、それが起こることを事前には見抜けなかっただろう。

好奇心を持てる余裕、音楽を効果的に届ける仕組み、適切な社会的条件があれば、ムーブメントは再び急成長できる。

遅すぎることはない。

ただし、そこへ到達するには、リスクを取る精神が必要なのかもしれない。


第3章 「4点」と「9点」の世界

この一年、フェスティバルを歩き回るたび、GQの批評家Alan Richmanがかつて「エゴタリアン料理(egotarian cuisine)」と名づけた、料理界のある傾向が何度も頭をよぎった。

高級店のテーブルに並ぶ料理は、技術的には見事で、技法も背景も緻密だった。だが、客が本当に食べたがっているものとはずれていた。

結局のところ、Anthony BourdainやJonathan Goldらが称賛したストリート・フードが、ミシュラン受けを狙った料理に勝った。

同じ違和感が、ダンスフロアにもまとわりついていた。2026年夏の序盤を見る限り、今年もまた同じ料理をもう一皿出されることになりそうだ。

良い音楽は鳴っている。時には、きわめて良い音楽さえある。技術が足りないわけでもない。

それでも、目的意識や切迫感が欠けているという感覚が拭えない。

息つく暇もない日常に疲れた観客は、頭を空にし、ただその場の空気に身を委ねるためにやってくる。

この断絶を、Keinemusikの観客や、フロアにあふれるスマートフォンのせいだけにするのは、責任逃れだ。

その場にいた友人たちも、似た感想を口にしていた。

時折、シーン全体が鎮静剤を飲んだように感じられた。

胸躍る新しいムーブメントへ、まだ偶然たどり着けるかもしれない。だが、この希望には根本的な矛盾がある。

快楽中枢を刺激しない音楽や、その場にそぐわないと受け取られる音楽は、しばしば観客を立ち去らせる。

昨夏に私が観たなかで最もラディカルだったセットの一つ、Draaimolenでの33EMYBWは、偶然とは思えないほど観客が少なかった。

また、聞く限りでは、2025年に定石から最も大きく外れた新世代のヘッドライナー、¥ØUUK¥UK1MATUも、ツアー中に何度も大きく空振りした。

一方、先ほど挙げた「ヴァイブ重視」の五つの潮流のうち四つ――プログレッシブ、テック・ハウス、ダブ・テクノ、ミニマル――は、DJセットで使われても、必ずしも突き抜けるような高揚や衝撃を生みやすい音楽ではない。

これは、一般に考えられている以上に、アルゴリズム時代の均質化と結びついた、メビウスの輪のような問題である。

環境のせいで、DJは極端な音楽をプレイしにくくなる。

すると観客は大胆な音楽に触れる機会を失い、大胆なプレイにも慣れなくなる。

それがDJのリスクテイクをさらに抑え、観客の好みはますます均質になる。

そして循環が続いていく。

だが私は、荒々しいものと甘いもの、良いものと悪いもの、痛々しいものと神聖なもの、そのすべてが欲しい。

あなたもそうではないだろうか。

私はますます確信している。

永遠に「7点」のものだけが続く世界より、「4点」と「9点」がある世界に住みたい。

「人々は文化に夢中だったから、絶えず外へ出かけていた。
でもいま、経済状況はめちゃくちゃだ。それは当然、私たちが文化とどう関わるかにも影響する」
― Batu

もちろん、こう反論することもできる。

リスクという言葉は、その代償を自分で払わなくていい時には美しく聞こえる。

芸術の世界で何らかの足場を得るために必要な資金は、かつてないほど大きくなっている。

前例のない方向転換や、自分のブランドが求めるものと一致しない試みに賭けるのは、簡単ではない。

一度のリリースが失敗しても耐えられるほど強固なファン層、副収入、あるいは職業上の安全網が必要になる。

だから、本来の直感を曲げてでも無難な中道を選ぶアーティストがいるのは不思議ではない。

音楽をリリースするという単純な行為も、以前より多くのものを人から奪うようになった。

数え切れないほどのインディペンデント・レーベル、ミュージシャン、メディアが、自ら望んだわけでもなく、十分に対応する力もないコンテンツ競争へ縛りつけられている。

そのことも、私たちのもとへ届く、本当に独創的な音楽の数を減らしているのだろう。

音楽そのものの価値が、それを宣伝する人物の写真映えやカリスマ性に押し流されるからだ。

使い古された定型の、ありきたりなバリエーションを量産するミュージシャンがいるだけでも十分に悪い。

テクノはいまなお、世界中のクラブやフェスティバルで圧倒的な存在感を保っている。だが、大きくブレイクし、人々に衝撃を与えた最後のテクノ・トラックを、すぐに思い出せるだろうか。

芸術家としてのキャリアを維持する動機がここまで歪み、Ernst & Youngの会計士だったJohn Summitと、ヘッドライナーDJとなったJohn Summitのあいだに、企業人のような出世欲という点で違いが見えなくなった時、私たちはもう終わっているのではないかと思えてくる。

この10年を特徴づける、過酷な経済状況と、すべてを平板化するテクノロジーの二重の圧力は、芸術性を少しずつ削るだけではない。

観客の好みが育つ機会まで奪っている。

この一年の『RA Exchange』で交わした対話のなかでも、特に身につまされたのが、Batuとの会話だった。

なかでも、次の言葉が強く残っている。

「若い人たちが芸術や文化と関わることを考えた時、非常に大きな問題になるのがチケット価格です」

彼はそう語った。

「僕がBristolへ引っ越した頃は、みんな文化にものすごく夢中だったから、いつも遊びに出かけていました。スポンジのように、あらゆるものを吸収していたんです」

「そこで得た刺激は、その後何年も自分のなかに残ります。でもいまは、それが経済的に難しくなっています。僕たちはクラブ・ミュージックだけを社会から切り離して、この問題を話しがちです。でもイギリスでも、ほかのあらゆる場所でも、経済状況全体が本当にめちゃくちゃです。端的に言えば、それは人々が文化とどう関わるかに影響します」

経験を積んだクラバーが、もっと気楽だった時代を懐かしむのは当然だ。

しかし、そこで価格の問題は見落とされがちである。

チケットが7ポンドや10ドルなら、ひどい夜に当たっても、経験の一つとして受け入れられる。

好みは、大成功の夜だけでなく、救いようのない失敗によっても形作られる。

だが一晩の出費が簡単に100ポンドや100ドルを超えるようになれば、アルゴリズム時代と同じ問題が再び現れる。

人は結局、すでに知っているものを選ぶ。

自分のビジョンに忠実な作品を育てるには、時間がかかる。

家賃を払うためだけに二つ、三つの仕事をしなければならないなら、制作や音楽探しに使えなかった時間は積み重なり、やがて取り戻せなくなる。

生活に必要な負担ばかりが増え、見返りが減ると、時間にも金にも余裕のない人が締め出されるだけではない。

創造性も、新しい表現をするアーティストを押し上げるためのエネルギーも吸い取られていく。

要するに、生活費が上がり続け、進歩が停滞するにつれて、私たちは文化的スタグフレーションへ引き込まれていく。

リスクが答えでないのなら、必要なのは大胆さかもしれない。

振り返って記憶に残るのは、異様な力を持つ音楽に出会った瞬間である。

私たちが2000年から2025年までの年間ベストを後から振り返って検証した時、投票結果にもそれが表れていた。

既存のサウンドを洗練した、完成度の高い美しい作品よりも、荒削りでも大胆な作品の方が高く評価されていた。

もちろん、このような企画は、もともとその種の作品を選びやすいとも言える。

しかし、DMT的なエレクトロニカや、Boomkat好みの鋼鉄と肉体の音楽が足りないことをめぐって、あれほど議論が白熱した事実が何かを示しているとすれば、正典化は、一部の人が認めたがる以上に重要だということだろう。

現段階では、2020年代の聴き手は、構成が緻密に完成された作品よりも、社会的な触媒として機能する作品を好んでいるのかもしれない。

それは、私たちが停滞とは正反対のものを切望している証拠でもある。

とりわけ分断された世界では、物語が強い推進力になる。

今世紀のクラブ・ミュージック史に残る作品や出来事――『Glass Swords』、「Fuck the Pain Away」、「Anti War Dub」、そして無数の不敵なグライムのミックステープ――には、登場以前と以後を分けるほどの断絶があり、それがいまも作品の力になっている。

J Dillaの、クオンタイズされていないスウィング。

SOPHIEのテクスチャーが呼び起こす、生理的な違和感。

知られざるブラス音源と、苛立つほど捉えどころのないミックスを操るRicardo Villalobos。

あるいは近年のNono GigstaやKiernan Laveauxによる、マルチジャンル・ミックスを可能性の限界まで押し進めるセット。

これらが人々の意識に強く食い込んだのは、奇妙さにもかかわらずではない。

奇妙だったからこそである。

最近ではLos Thuthanakaが、徹底して地域固有で、制作のあり方も型破りなレコードを作った。

それを聴いて、「自分も同じような作品を作ろう」と思う人がいるとは、私には想像できない。

だが、聴いた人が次のように思ってくれることを願いたい。

「失敗する可能性が高くても、自分もこれほどラディカルな芸術を作る」

こうした価値観を揺さぶる瞬間こそが残るのなら、その精神が生まれる環境を、もっと積極的に作らなければならない。

そして金銭面でも、きちんと支える必要がある。

あるいは、もっと復讐心に満ちた動機でもいい。

周囲の競争相手があまりに退屈で、うんざりしているのなら、炎のなかへ飛び込み、本当に異端で、常識から外れたものを作るには、いまほど良い時はない。

その勢いを生み出してきたのは、伝統的に若者だった。

だが、ここに問題がある。

エレクトロニック・ミュージックは、いま若者たちの声を十分に聴いているのだろうか。


第4章 エレクトロニック・ミュージックの聴衆には、まったく新しい風が必要だ

1990年代のドイツ政治に、Reformstauという新しい言葉が現れた。

変革が必要なことは、誰もが理解している。だが合意形成の論理、拒否権、波風を立てることへの恐れが組み合わさり、改革は渋滞したまま動かない。

その結果、状況が対応の追いつかない速さで変化するなか、惰性で進み続けていると非難される政治・経済の支配層が生まれた。

電子音楽もいま、それなりのReformstau――改革の停滞に陥っているのではないかと思う。

状況が不安定なことは、ほとんどの人が分かっている。

では、どうすればいいのか。

ベルリンの文化理論家Xinが昨年、クラブ文化を「老人ホームへ移す」よう訴えた刺激的な論考にならって、ラディカルな立場を取ることもできる。あるいは、もっと穏当な見方もできる。

いずれにせよ、電子音楽の供給過剰と、選択肢の多さが生む麻痺は、明らかにシーンを傷つけている。

アーカイブ、AI、音楽制作をめぐる問題が今後何をもたらすかについては、別の記事で詳しく扱っている。

だが、ここにはもう一つの問題がある。

業界と聴衆のさまざまな層に広がる、世代間の断絶だ。

Gen Zは、不当に多くの批判を浴びている。

しかし、パンデミックの最中に従来型のクラブ入門を経験する機会を奪われた世代が、以前とは異なる聴き方や価値観を身につけてきたことは、さまざまな兆候から明らかだ。

私たちは彼らの感覚に、もっと上手く波長を合わせられるはずである。

ここでいうのは、まもなく30歳になり、文化的にはミレニアル世代に近く、すでにシステムへある程度組み込まれた人々ではない。

おおよそ25歳以下の、いわばYoung Zoomers――Z世代のなかでも若い層である。

この隔たりをどう縮めるのか。

そして、閉め切った部屋の淀んだ空気を入れ替えるために、私たちは彼らから何を取り入れられるのだろうか。

コーヒーレイヴのような、からかいやすい対象はいったん忘れよう。

文化を消化しやすい断片へ圧縮するのは、文化を貧しくする行為だという抵抗感も、ひとまず脇へ置く。

若い世代の入口は、それ以前の世代とは違う。

そして周知の通り、飲酒を前提にした場はいま苦境に立たされている。

彼らは、権威を必要以上にありがたがらず電子音楽へ接してきた。その姿勢は、形式や作法をめぐって自縄自縛に陥っている文化にとって、むしろ解放的になりうる。

ただし、それが起きるのは、音楽を届ける側が彼らのいる場所へ出向いた時だけだ。

彼らにとって不慣れで、時代遅れに見える環境へ、力ずくで押し込もうとするのではなく。

2010年代に起きた最大の変化は、特定の一つのサウンド以上に、視覚言語の変化だったのかもしれない。

DJの現場では、スマートフォンの存在が渋々ながら認められるようになった。

高額なステージ演出でさえ、LEDウォールより、Boiler RoomのようにDJを取り囲む観客を画面の中心に置くようになった。

私たちのフィードは、望むと望まざるとにかかわらず、ドロップの瞬間を切り取った動画を流し続ける縦型ビデオプレイヤーになった。

2020年代に入り、その視覚言語は再び形を変えている。

大げさに演出されたDJブース動画。
常時配信するTwitchストリーマー。
ポッドキャスト文化以後の、挑発を売りにする者たち。

この変化をどう評価するかは難しい。

まず、マッチョさや体育会系男子のようなノリは、進歩的で、クィアや黒人の空間を起源とするカウンターカルチャーにとって、越えてはならない明確な一線になりやすい。

さらに、こうした領域は、電子音楽が依存してきた、時間をかけて聴く姿勢や超越性の探求とも相反する。

流れ続けるチャット欄を片目で追いながら、細かなサウンドデザインに集中することはできない。

強烈なドロップへのリアクションを、動画用に切り取ることばかり考えていても同じだ。

さらに厄介なのが、広がり続ける社会的な隔たりである。

価値観の違いだけではない。

Gen Xとミレニアル世代の声が依然として支配するクラブシーンは、しばしば前者の最悪の衒学趣味と、後者の最悪の生真面目さ、そして両者に共通する過剰なこだわりを増幅する。

口論。
独善。
参加するために700ページの入門書を読まされるような感覚。

新しく入る側には、まったく歓迎されているように感じられない。

率直に言えば、特にクールにも見えない。

これと並行するもう一つの問題が、業界の閉鎖性だ。

要するに、問題は外部ではなく、業界内部にある。

何を報道し、誰をブッキングするかを決める人々は、しばしば視野が狭く、十分に検証されていない基準を使っている。

その結果、さまざまな兆候を捉えられず、巨大なコミュニティを丸ごと見落とす。

これは機能するシステムというより、鏡の迷宮に近い。

ストリーミングの数字を見ると、現在のアンダーグラウンドには、業界から十分な支援を受けながら、リスナーのあいだでは自発的な広がりをほとんど得ていないアーティストが驚くほど多い。

エージェント、広報、ライター、ラジオDJ、プロモーターのほとんどが、同じ狭い趣味の範囲だけを参照しているなら、そこには明らかな欠陥がある。

これはRAを含む、あらゆるメディアにつきまとう問題だ。

企業による芸術支援を批判する、Substackで人気を集める論客が、かつて何年もRed Bull Music Academyに在籍していたという事実は、たしかにいくつかの疑問を生む。

だが、それが中央集権型の音楽ジャーナリズムの実情だった。私自身もそこにいた。

RBMA、FACT、Tiny Mix Tapesなどのメディアが消えた時、才能ある人々まで一緒に消えたわけではない。

担当分野は異なっても、世界観や人脈を大まかに共有する批評家たちは、業界のなかに足場を保ち続けた。

そのことが、国境を越えて生まれる2026年の音楽を捉えるために、十分に広い網が張られているという安心感を生んできた。

だが、本当にそうだろうか。

業界が常に生き残りを優先せざるを得ない状況では、周縁の現場を取材するために人や金を割くことや、自分の聴き方を日々問い直すことの優先順位は下がっていく。

それでも、旧来型のメディアと閉鎖的なレイヴのネットワークのなかに、新しい世代が自分の姿を見いだせないとしても不思議ではない。

そのことは、双方を隔てる壁をさらに厚くする。

電子音楽のコミュニティは、外から見る人にも、内側にいる人にも近づきやすく、心を動かされるものになることで、硬直化を食い止められるかもしれない。

伝統を守るために使う労力の一部を、外へ開くことに回せないだろうか。

この閉鎖性によって、いったい何人のプロデューサーが恩恵を受けているのだろう。

デンバーからカラカス、スラバヤ、そして無数の小さな町まで。

そうした場所で、22歳の若者たちがソフトウェアをいじっている。

未来の電子音楽を動かしうる人々が、網からこぼれ落ちようとしている。

長い目で見れば、いずれ文化から離れていく層の好みを満たすより、彼らとの接点を築くことの方がはるかに優先されるべきだ。

情報が、私たちが記録できる以上の速さで流れ去るなか、必要とされる世代交代は、私たちが慣れ親しんだような秩序ある形では起こらないだろう。

電子音楽は世代の変化を前に、奇妙なほど出遅れてしまった。

ポップやラップに一周遅れている。

それらのジャンルはもっと身軽で、新しいスターを定期的に送り出し、新しいリスナーをより速く取り込んでいる。

対照的に、教え諭すような態度と変化への硬直性が、電子音楽に余計な荷物を背負わせている。

とはいえ、嗜好の変化を、専門性の放棄と混同してはならない。

新しい動きが、業界やベテランの見慣れた形で現れるとは限らない。

だが、注意すれば見つけられる。

非公式で自律的なパーティはいまも盛況だ。

カメラへ向かって語る音楽批評が徐々にThe Needle Drop化したことで、marg.mp3Tia HoRamonPangのようなクリエイターが、ニッチな音楽を継続的に多くの人へ届けられる形に変える世界が生まれた。

Young Zoomersの多くは、古い『Faith』誌を読み漁るのではなく、彼らを通じてbraindanceやLove Spirals Downwardsを知ることになるだろう。

インターネット上に膨大な情報があることで、一人ひとりの知識はいまもどこまでも深められる。

献身も、熱量も、完全に残っている。

ただ、それを引き出すには、以前より少しだけ努力が要る。

だからこそ、これから起きる世代間のバトンタッチは、ますます重要になる。


第5章 優れた文化は、自らの魅力を語れる

一つのサイクルが終わりを迎えようとしているのかもしれない。それは、そこに関わってきた多くの人にとって痛みを伴う。

次のサイクルへ向けて自分を奮い立たせるのも、簡単ではない。知識を身につけ、形式を忠実に守り続けるうちに、古い枠組みの外側にあるビジョンを思い描けないところまで、私たちは来てしまったのかもしれない。

だが直感は、若い人が周囲の理屈に押しつぶされる前に、自分のなかへ保ち、そのまま行動へ移せる数少ない資質の一つだ。

そこから学べることは多い。

過去の時代を振り返って際立つのは、アドレナリンに満ちたサウンドだけではない。

熱狂そのものである。

ダンス・ミュージックや電子音楽に大きな転機や熱狂が生まれる時、そこには共通して二つのものがある。

どうしてもその一部になりたいと思わせるシーン。
強迫的なほど夢中にさせるサウンド。

現在のクラブでは、その感覚が欠けていることが痛いほど明らかだ。

同じ古い構成要素を並べ替えるだけでは、人々をダンスフロアへ殺到させることはできない。

これほど新陳代謝が起きない状態は異例である。

かつてラインナップは数年ごとに姿を変えた。再生のためには、古いサイクルが終わる必要もあった。

いまは単純に、需給バランスが崩れているのかもしれない。中堅DJが多すぎる状態が続き、均質化を固定している。

生活費を稼ぐことがますます難しくなるなか、自らヘッドフォンを置き、若い世代へ主導権を渡し、業界を内側から作り変えさせようとする人が多く現れるとは考えにくい。

だが必要なのは、単なる世代交代だけではない。

新しいものへの抵抗を、いったん忘れることなのかもしれない。

自分が敬愛するサウンドの純粋性や美点を守ることには、もちろん意味がある。あまりに自明で、あらためて言う必要もないほどだ。

しかし何十年も同じ領域ばかり掘り返していると、文化は職人的な完成度だけを追うようになり、機械的な反復へ陥る。

最悪の場合、「音楽はこう体験するべきだ」という父権的な押しつけが、可能性を制限する装置として働く。

2010年代の一時期、EDMを指さして笑うのは多少おもしろかったかもしれない。

だがやがて、David Guettaの投稿のコメント欄で、「ダンス・ミュージックおじさん」たちが、いいね欲しさに尊大な態度を取る姿は、目を覆いたくなるほどダサくなった。

あれを見て、ダンス・ミュージックへの敬意を深めた人がいただろうか。

あるいは、

「これはクールだ」

と思った人がいただろうか。

ここで私は、再統一後のドイツから生まれた、もう一つの作品を思い出す。

Rainald Goetzが1998年に発表した小説『Rave』だ。

前例のない瞬間へ巻き込まれていく感覚を、見事に捉えた作品である。

だが物語の終盤、語り手は、そのすべてに本当に意味があったのか確信を持てずにいる。

無垢な感覚がほどけていくなか、Goetzは、自分の周囲にいる「すべてを収集し、完全に把握しようとする者たち」の運命について考える。

「Olafは、優れたDJの多くと同じように、音楽の細部に対する、極端に洗練され、研ぎ澄まされた、神経質な感覚に苦しんでいる。その判断はますます細分化され、ますます不安定になり、そしてますます正確になっていく。

だが最後には、その正しさそのものが崩壊する地点へ行き着くのかもしれない。そこで生まれるのは、空虚さと古典主義の奇怪な結合だ。GoetheとDetroit、Chicagoと古代ギリシャ。

それは何も付け加えない。どこにも向かわない。いま、この瞬間とは何の関係もない」

過去には、後に歴史的重要性を持つものを頭ごなしに否定した人々の痕跡が、無数に残っている。

Throbbing Gristleを文明の破壊者として嘲笑した人々。

Suicideへ斧を投げつけた観客。

アシッド・ハウスを悪魔崇拝だと非難した人々。

デジタルDJを、低ビットレートによる音楽の粗悪化だと攻撃した人々。

PC Musicを、浅薄なアート気取りのごみだと切り捨てた人々。

歴史が動く瞬間に、間違った側へ立つことだけは避けたい。

二年前、ほかならぬDJ Harveyはこう語っていた

「どこかに、今まさにピークを迎えているのに、僕らが何も知らないシーンがきっとある。僕らはそれを理解できないから、好きにもなれないだろう。

若い人たちが、僕らにはまったく分からない何かをやっている。そして僕らは年寄りだから、そのすべてを嫌う。でも、それはとてつもなく面白いものになる」

とはいえ、インターネットがあらゆるものを可視化してしまうことで、何かが人目につかない場所で成熟し、ピークへ達する可能性は、永久に失われたのかもしれない。

この記事で触れてきた何十ものシーンやサウンドには、かつて、外から注目されずに成熟する時間が与えられていた。

私たちは、新しいものを追いかける喜びに動かされているにせよ、半ば惰性でスクロールしているにせよ、何かが芽を出したばかりの段階で取り上げては、すぐ次へ移る。

それは持続できないやり方だ。

新しいものを根づかせる土壌を耕さないまま、注目だけがあちこちへ移っている。

本当の「2020年代のサウンド」は、2040年になって初めて姿を現すのかもしれない。

作品完成から何十年も後になって評価された、GauguinやHilma af Klintのように。

それは美しい話ではある。

だが私の直感では、そこまで長く待つ時間はない。

新しい動きを育て、広げることに苦戦している現在のシステムでは、私たち全員に責任があるように思う。

とりわけ、業界内で肥大化した中間層にいる人々には、自分たちが支援する対象を変え、次のブレイクスルーをどう支えるのか、真剣に考える責任がある。

皆が疲弊している時代であっても、異なる領域を橋渡しする試みを何もせず、誰にも働きかけず、必要なら既存の枠組みを組み替えることさえしないのは、判断の誤りだ。

もう一つの道は、電子音楽が社会的な共鳴力を失い、20世紀後半のジャズと似た立場へ追いやられることである。

これはジャズを貶しているのではない。

1960年代以降、ジャズはメインストリームから徐々に押し戻され、より若々しく魅力的に見える娯楽に覆い隠されていった。

ファンクと融合し、スムーズ・ジャズ化し、複数の流派へ分かれた。

そして、かつての前衛が示したビジョンだけが唯一正しい道だと主張する形式主義者によって、仮死状態のまま保存された。

コアなファンは残った。

一方で1990年代までには、観客は高齢化し、若い層の多くが離れていた。

再興の火がつくまでには、何十年もの時間が必要だった。

1996年、『The Village Voice』などで高く評価された批評家Francis Davisは、迫りつつある世代間の断絶に警鐘を鳴らし、この問題を正確に言い当てた

「自らを過去とこれほど強く同一化することによって、ジャズは自らの未来を売り渡しているのではないか。

『伝統』について、これほどまでにありがたげに語り続けることは、10代や大学生に対して、ジャズには彼らの興味を引くものが何一つない、というメッセージを送っているのではないか。

そして18歳や19歳の時に心を激しく動かした音楽こそが、その人にとって生涯の音楽になる可能性が高いのではないか」

隣接性。

鋭さの喪失。

アクセスをめぐる危機。

古参による近代化への抵抗。

新しい世代を内部へ取り込めないこと。

新しい様式が境界を越えられず、停滞を打ち破れない状態。

目を向ければ、類似点は明らかだ。

これから何が起きるのか、まして何をすべきかについて、完全に同じ見方をする人はいないだろう。

だが、あなたは今が、これまでで最良の状態だと本当に思うだろうか。

もし今日初めてこのシーンに触れたとして、それでも関わり続けたいと思うだろうか。

2020年代の電子音楽とその文化には、ほかのどの時代とも互角に渡り合えるほどの生命力と熱気が、本当に宿っているだろうか。

そう思えないなら、道は二つある。

一つは、現状に閉じ込められたままでいること。

もう一つは、参加者として、支援者として、リスナーとして、信じる者として、自分がどの立場にいても、実際の制度や金の流れをどう変えられるかに目を向けることだ。

そして、そこから始めることである。